最強の城に選ばれた米子城に、柳生一族の歴史が垣間見える!

2024年3月24日

中国地方最高峰の大山(1,729㍍)の山頂から朝日が昇るように見える「ダイヤモンド大山」と城下360°が一望できる、米子城天守台からのパノラマは絶景です。
2022年元日に放送されたNHK「日本最強の城スペシャル第10弾 ~ 一度は行きたい絶景の城~ 」で、米子城が最強の城に選ばれました。
これは、大山、中海、日本海、市街地など、360°一望できる天守台からの絶景が評価されたものです

米子城は、鳥取県米子市の中心部にある城跡です。
標高約90mの湊山に位置し、四層五重の天守閣と四重の副天守閣(四重櫓)を持ち、「山陰随一の名城」とも称される壮麗な城郭でした。

米子城の歴史

米子城は、応仁から文明年間(1467年から1487年)に、山名宗之(やまなむねゆき)によって砦として飯山(いいのやま)に築かれたのが始まりと伝えられます。
文献上は、「出雲私史」に文明2年(1470年)に初めて記述がみられます。

現在、「城山」と呼ばれている湊山(みなとやま)の本格的な城としては、西伯耆の領主となった吉川広家(きっかわひろいえ) が天正19年(1591年)に築城を開始しました。しかし、完成した城を見ることなく、慶長5年(1600年)の関ヶ原合戦に敗れた吉川氏は岩国に国替えとなりました。吉川家文書「戸田幸太夫覚書」によると、それまでにほぼ7割が築城されていたとあります。
慶長6年(1601年)、伯耆国(ほうきのくに)18万石の領主として 中村一忠(なかむらかずただ)が12歳のときに駿府から米子藩主に任命され、慶長7年(1602年)ごろ、米子城は完成したといわれています。
慶長14年(1609年)に中村一忠が急死したため、中村氏が断絶し、翌年に会見・汗入(あいみ・あせり)6万石の領主として加藤貞泰(かとうさだやす)が入城しました。この後、 のちに近江聖人と呼ばれる中江藤樹(なかえとうじゅ)も米子にやって来ました。
元和3年(1617年)、加藤氏は伊予大洲(いよおおず)へ国替えとなり、因伯領主 池田光政(いけだみつまさ)の一族である池田由之(いけだよしゆき)が米子城預かり3万2千石となります。
寛永9年(1632年)には、池田光仲(いけだみつなか)が因伯領主となり、家老の荒尾成利(あらおなりとし)が米子城預かり1万5千石となりました。以後、明治2年(1869年)まで、荒尾氏が代々、米子城主として城を預かり、自分手政治を行ないました。
明治2年、米子城は荒尾氏から藩庁へ引き渡され、その後、士族に払い下げられました。
そして明治6年(1873年)には、米子城の建物の大半は売られて、数年後に取り壊されることとなります。

縁あって柳生一族の宗章、米子城に没す

そして、米子城の歴史の中で戦死した剣の達人として有名な人物、その名は柳生 宗章(やぎゅう むねあき)といい、今回この人物にスポットを当ててみたいと思います。
柳生一族の中で一、二を争う剣の達人・柳生五郎右衛門宗章が、米子城で客将として主君のため、恩義に報いたいと戦に加勢。奮闘し戦死した事実です。

宗章(むねあき)は、柳生宗厳(石州斎)の四男で、五男は徳川家康の剣術指南役の宗矩です。 縁あって米子城中村家の家老、 横田内膳の客将となり、米子の地に来ました。

慶長8年(1603年)11月、 慶事の不手際を理由に横田内膳が殺害されると、それを不満に思った横田主馬助を総大将として横田家の遺臣が米子城と地続きにあった飯山砦(内膳丸とも云われる)に立てこもります。 横田主馬助からは客将であることを理由に砦から辞去するよう勧められていますが、横田家への恩義に報いたいと戦に加勢しています。

そして、隣国の堀尾吉晴(出雲富田城主)の助勢を得た中村一忠により鎮圧され、その際に柳生新陰流の達人である宗章(むねあき)は、吹雪の中で数本の刀を差して敵兵18名を切り倒すなど奮戦しますが、最後は刀折れて壮絶な戦死を遂げた、と文献に記してあります。
柳生 宗章(むねあき)は、この武勇から柳生新陰流の名声を大いに上げたといわれています。

柳生宗章(やぎゅう むねあき)とは

④柳生 宗章:永禄9年(1566年)〜 慶長8年11月14日(1603年)は、柳生宗厳(石舟斎)の四男で柳生厳勝の弟、柳生宗矩の兄にあたります。通称・五郎右衛門と呼ばれていました。

文禄2年(1594年)に弟の宗矩とともに徳川家康に召されましたが、宗章はこの時には仕官を断っていたのです。その後、武者修行の末に小早川秀秋に召抱えられます。

関ヶ原の戦いでは小早川秀秋に近侍(きんじ)して警護の任に当たったとあります。

2年後、小早川家が改易されると、中村一忠の執政家老・横田 村詮に乞われて米子藩に客将として仕える事になる。横田 村詮の米子城下建設に務める才覚を妬(ねた)み、出世を目論む一忠の側近、安井清一郎、天野宗杷らが、14歳の幼い城主:中村一忠を唆(そそのか)して惑(まど)わせ、陥(おとしい)れたそうです。

慶長8年(1603年)11月14日、城内で催された慶事に託(かこつ)けて、安井、天野らは、己は手を下すことなく、城主を介して慶事の責めを負わせ、横田 村詮を謀殺(ぼうさつ)しました。
そこで横田一族を支持する家臣は憤りを感じ飯山(いいのやま)に立て篭もったのです。
柳生 宗章(むねあき)も、一部の側近の仕業に義憤(ぎふん)を覚え、横田家への恩義もあり加勢したのでした。
そこで中村一忠は、隣国で出雲国の月山富田城主である、堀尾吉晴の助勢を求めて横田一族を鎮圧しました。柳生 宗章(むねあき)も吹雪の中で数本の刀を差して敵兵18名を切り倒すほどの奮戦振りを見せますが、最後は刀折れて壮絶な戦死を遂げたのです。

柳生 宗章(むねあき)の戦死は、米子城騒動の悲劇的な結末を象徴する出来事であり、今なお人々に語り継がれています。

翌年、慶長9年(1604年)幕府の命によって佐藤半左衛門、河毛備後を米子城の執政とし、横田村詮の殺害を陰謀した中村一忠の側近である安井清一郎、天野宗把、道長長右衛門を死罪にします。

その後、慶長14年(1609年)5月11日、中村一忠は20歳で急死し、中村家は断絶、城地収公に決まったのです。

<まとめ>

明治維新後、米子城は廃城となり、天守閣も明治32年(1899年)に解体されました。石垣や礎石などの一部が残されました。昭和37年(1962年)には、米子市によって米子城跡が整備され、天守閣の一部を再現した米子城天守閣展望台からは、米子市街や大山の絶景を楽しむことができます。現在、米子城跡は市民の憩いの場として親しまれています。
柳生宗章の墓は飯山の麓にあります。 米子城を訪れた際は、宗章の墓にもお参りし、当時の活躍に思いをはせてみられてはどうでしょうか。

「柳生宗章の生涯」のドラマ化を望む

柳生一族の中でも一番の豪剣と謳われている、柳生宗章の生涯を映画かテレビのドラマに出来ればと思っていますが、どなたか「柳生宗章の生涯」を脚本にしていただける方はおられませんでしょうかね?

<追記:柳生一族>

奈良市柳生町は、かつて天下に名をはせた剣豪、柳生一族の里である。
柳生家中興の祖といわれる石舟斎宗厳(せきしゅうさいむねよし)こと、柳生 宗厳(むねよし)は、戦国時代に辛酸をなめた経験から、武士の刀は抜かないことを理想とし、「柳生新陰流(しんかげりゅう)」を創始しました。
柳生 宗厳(むねよし)の五男 宗矩(むねのり)は、沢庵和尚(たくあんおしょう)に禅を学び、父の「柳生新陰流」を広めて、徳川家二代将軍秀忠(ひでただ)、三代家光(いえみつ)の兵法師範となりました。
そして宗矩(むねのり)の長男、十兵衛三厳(じゅうべえみつよし)の時代には、門弟は全国に一万人を超えたといわれています。

柳生 宗厳(むねよし)石舟斎は、日本の剣術流派である『柳生新陰流』の開祖とされる剣豪です。入道してからは石舟斎と号したとあります。子に柳生厳勝、柳生宗矩、柳生宗章ほか。

②兄の柳生 厳勝(よしかつ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武士で、通称は新次郎と言われていました。
新陰流の剣豪・柳生 宗厳(むねよし)の長男として生まれ、尾張柳生の初代柳生 利厳(としよし)の父として知られています。

③弟の柳生 宗矩(むねのり)は、江戸時代初期の武将、大名、剣術家で、徳川将軍家の兵法指南役となっており、大和柳生藩の初代藩主です。
新陰流の剣豪・柳生 宗厳(むねよし)の五男で、剣術の面では将軍家御流儀としての柳生新陰流の地位を確立しました。

⑤柳生 三厳(みつよし)は、柳生 宗矩(むねのり)の長男で江戸時代前期の武士、剣豪、旗本です。
通称の「柳生十兵衞」または「柳生十兵衛三厳」として知られています。 大和国柳生藩初代藩主にして将軍家兵法指南を務めた剣豪・柳生 宗矩(むねのり)の長男です。
始めの頃は、徳川家光に小姓として仕えましたが、主君の勘気に触れて出仕停止となり、後に許されて書院番を務めています。
柳生十兵衛柳生 三厳)と言えば、現代では映画やテレビドラマで、片目に眼帯をした「隻眼の剣豪」として有名な剣豪として描かれています。
徳川幕府の隠密として諸国を旅して活躍する、テレビドラマや映画の主人公として描かれることも多い彼ですが、謎も逸話も多い伝説の人物のようです。

<言葉の意>

自分手政治(じぶんてせいじ)とは、
 江戸時代、鳥取藩が藩内統治の一環として家老職にある家に藩内の重要な拠点の町を委任統治させたこと。自分政治ともいいます。

入道(にゅうどう)とは、
 出家・剃髪(ていはつ)して仏道に入り修行すること。

伯耆国(ほうきのくに)とは、
 現在の鳥取県中西部(ちゅうせいぶ)をさしています。地元では、大山(だいせん)のことを伯耆富士(ほうきふじ)と呼んでいます。

中江藤樹とは、
 慶長13年(1608)、藤樹は近江国高島郡小川村の農家・中江吉次の長男に生まれました。
9歳の時、祖父・中江吉長の養子となりますが、吉長が伯耆国米子藩加藤家の150石取りの藩士であったため、親と別れて米子に赴きます。
元和2年(1617)、加藤家は伊予大洲藩に転封となり、藤樹は祖父母とともに移住しました。
のちに、江戸時代の陽明学者で「近江聖人」と呼ばれたことで知られる人物です。